— Kanatalia / Archive
Archived · 2026-05-08
Leonardo da Vinci
レオナルド・ダ・ヴィンチ
画家/解剖学者/設計家/観察者
- Age
- 1452 – 1519(享年 67)
- Where
- フィレンツェ → ミラノ → アンボワーズ
- Born
- 1452年 ヴィンチ村(トスカーナ)
「生きるとは何かを学んでいるつもりだったが、ふりかえれば、死ぬとは何かを学んでいた、と書き残した人。」
Motif — 「私は手で考える。」
— Opening / 死生観とは
「死生観」とは、
いつ死んでもいいように、
いまをどう生きるかを選ぶ態度のこと。
すべての姿は、まずここから始まる。Kanatalia の取材はかならず、 「あなたにとって、死生観とは何ですか」という問いから入る。 答えは、人によってまるで違う。違うことが、姿が違うということでもある。
— I / Present
姿の章 I
現在 ─ 七千二百ページの遺書
彼の本体は、もう五百年、紙のなかにいる。鏡像で書かれた約 7,200 ページの手稿には、解剖、水流、植物、機械、絵画の下書きが、一冊のなかに同居している。完成された書物は、ひとつもない。
《モナ・リザ》は十六年、彼の手元にあった。注文主に渡されないまま、死の日まで連れて歩いた。完成させること自体を、たぶん彼は信じていなかった。
解剖した遺体は三十体を超える、と言われる。冬になると修道院の地下で、独りで内臓に手を入れた。腐臭のなか、彼は身体を、ひとつの装置として見つめていた。
— II / Philosophy
Way of life / thinking
Way of life / Way of thinking
- 01
自然のなかに、すべての答えがある。
- 02
動きは、生命の核心である。
- 03
私は手で考える。
- 04
完成させるとは、ひとつの死である。
- 05
生きるすべを学んでいたつもりが、死ぬすべを学んでいた。
— III / Past
辿りなおす分岐点
過去 ─ 名乗らない人の足跡
彼は、嫡子ではなく、姓を持たなかった。「ダ・ヴィンチ(ヴィンチ村の)」というのは姓ではなく住所だ。生涯、自分を名乗らずに済む方法を探していた人、というふうに、いま読みなおせる。
- 1452
ヴィンチ村に、名なくして生まれる
公証人セル・ピエロと、農婦カテリーナの間に、婚外子として生まれる。ピエロの家に引き取られたが、ピエロは新しい妻を迎え、レオナルドの戸籍上の母は何度も入れ替わった。「自分は誰の子か」を、彼は生涯一度も確定させていない。
- ~1469
ヴェロッキオの工房に入る
十代半ばで、フィレンツェの画家・彫刻家ヴェロッキオの工房に入る。やがて師は、若い弟子の天使を見て、「もう自分は筆を持たない」と言ったと伝えられる。彼は、誰かの代わりに筆を持つ立場から、誰の代わりにもならない場所へと、少しずつ移っていく。
- 1482
ミラノへ ─ 自己推薦の手紙
三十歳。ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに、自分を売り込む手紙を書く。「橋を架けられます。要塞を設計できます。大砲を作れます。…そして必要であれば、絵も描けます。」十項目のうち、絵は最後の一行だった。
- 1495
《最後の晩餐》、すでに崩れはじめる
修道院の食堂の壁に描き始める。彼は伝統のフレスコ法を拒み、自分で考えた油性顔料を使った。完成と同時に剥落が始まり、二十年後にはほとんど見えなくなっていた。「永遠の絵」を目指して、もっとも崩れやすい絵を遺した。
- 1499
ミラノ陥落、流浪のはじまり
フランスの侵攻でミラノが落ち、彼は逃げる。以後、フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマ、ミラノを行き来する。荷物のなかには、つねに、進行中の《モナ・リザ》と、解剖図の束があった。
- 1503
《モナ・リザ》を、はじめる
フィレンツェの商人ジョコンドの妻を描きはじめる。完成しないまま、十六年、自分のものとして持ち歩く。彼は描いていたのではなく、対話をしていた、と後の研究者は書いた。
- 1510
パヴィアの冬、屍体と過ごす
解剖学者マルカントニオ・デッラ・トッレと組み、三十体を超える屍体を切り開いた。氷の張る修道院の地下で、骨と筋と血管をスケッチした。「身体は、神の作った機械である」と書いている。神を退けるためではなく、機械であることが、神聖だと信じていた。
- 1516
フランス王に、招かれる
フランス王フランソワ一世が彼を迎える。住居はクロ・リュセの館。給金は破格で、義務は「ただ、ここに居てくれること」だけだった。彼は手稿の束と《モナ・リザ》を持って、最後の住処に入る。
- 1519
クロ・リュセに、終わる
五月二日、六十七歳。王の腕のなかで死んだ、と弟子は書き残した。本当かどうかは誰にもわからない。だが彼の遺品目録は、絵ではなく、書物と手稿の量で記録されている。完成された絵は、片手の数しかなかった。
— IV / Future
姿の章 IV
未来 ─ ノートの開封は、まだ続いている
彼の手稿は、弟子フランチェスコ・メルツィに託され、その後、何百年も、散逸と統合を繰り返した。読まれるのは、つねに、書かれた何百年もあとだった。彼は「未来の読者」のために書いていたとしか思えない、と歴史家は書く。
彼が遺した未完の絵は、いまも修復のたびに「もうひとつ層」が見つかる。完成しなかったことが、彼の未来になっている。
生きるすべを学んでいたつもりが、死ぬすべを学んでいた──と彼は手稿の片隅に書いた。その一文を、五百年後の私たちが読んでいることが、おそらく、彼にとってはほんとうの「未来」だ。